岡山桃太郎伝説
「吉備の国探訪>吉備の国はこんなところ(2)」から桃太郎伝説紹介 をまず読んでほしい。
ここでは、吉備の国が、310年を境に、支配者が変わったことを表している。
今回は、桃太郎の話を中心で行うので、310年以降の話が主流となる。
まず、天皇の皇子 吉備津彦命・稚武彦命兄弟が、大和から下向し、吉備の国を平定し、桃太郎伝説が生まれた。
支配された原住民はやがて鬼と呼ばれた。
このとき下向した兄の吉備津彦命は、元の名前は「彦五十狭芹彦命」つまり、吉備の国を平定してから吉備津彦命と呼んだことになる。
一方、稚武彦命は、別名 若日子建吉備津日子命と吉備の平定に関係ない.
古事記では、元の名前が若日子建吉備津日子命となっており、名前に変化がない。
この違いは何だろう、
兄弟の下向した時期が違うのではないか。
まず、兄が下向し、「吉備の国」の平定を行った。
(1)古事記に、孝霊天皇の時代に、播磨国を通過して吉備を攻め平定した記述が出てくる。 (2)魏略や魏志などの中国の史書によると、西暦247年,248年くらいに、倭国では、邪馬台国とそれに謀反を起こした狗奴国との間に戦いがあったとされ、その同時期か直後に、卑弥呼が死去したことが記載されている。 (3)更に近年、考古学の分野において古墳時代前期前半に前方後方墳を造営していた濃尾平野以東の東日本の諸勢力の前身で大型の前方後方形墳丘墓を営んでいた濃尾平野の勢力を狗奴国と見て、卑弥呼没後まもなく邪馬台国連合に統合され、徐々に吸収されたとする見解が出されている[4]。(出典:狗奴国 - Wikipedia)2011/10/02追加 (4)吉備南部最大の墳長76メートルに及ぶ前方後方墳と判明 総社で昨年末発見の古墳 外部施設も含めた全長は100メートルを超える。 |
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古墳時代前期に、吉備においても、前方後方墳系の大きな国(出雲系の国)があり、前方後円墳系の大和に征服された。
その後、吉備津彦命に弟が生まれた。その子を若日子建吉備津日子命(別名 稚武彦命)と名づけた。
そして、兄の跡継ぎとして、吉備の国に下向したと考えるのが自然だ。
吉備津彦命は、海(吉備津神社の南方の妹尾方面)から吉備の国に上陸した。稚武彦命は陸路で吉備の国に入ったといわれている。
そうすると、吉備津彦命が初代桃太郎であり、稚武彦命(わかたけひこのみこと)は第2代桃太郎となる。
3代目以降は、2代目桃太郎である稚武彦命の子孫が継いだこととなる。
吉備の国は、第2代桃太郎の子孫が支配し、天皇の后を輩出するなど華麗なる一族であった。
関連事項
足守川界隈をゆっくり下っていくと吉備津彦命に関連する神社などが現れる
桃太郎(吉備津彦)に関連する神社等紹介(岡山市北区足守地区)
縣社 二宮皷神社(岡山市北区上高田)
吉備津彦命の妃(高田媛命)をお祭する神社
二宮皷神社 宝塔(国重要文化財)
少し川を下ると
大井神社 (岡山市北区大井)
祭神:百田大兄命
百田大兄命の娘・百田弓矢比売命が吉備津彦命の妃となったが、
早くに亡くなった。
すこし川を下ると
足守地区(その他)木下家陣屋跡ー 足守町並み ーー葦守八幡宮
桃太郎(吉備津彦)に関連する神社等紹介(吉備の中山 岡山市北区吉備津地区)
吉備津神社、本殿、本宮社、新宮社