常山合戦 1.毛利氏と宇喜多氏の和睦 天正2年(1574年)将軍・足利義昭公の仲介で、織田氏・尼子氏に敵対することで 利害が一致し、毛利氏と宇喜多氏が和睦した。 毛利氏に属していた備中松山城主・三村元親には、宇喜多氏に対する長年の恨み から受け入れられない事であった。 毛利氏と宇喜多氏が手を結んだことで、元親は毛利氏と敵対する織田側につくこと にした。 この謀反に毛利氏は気づき、宇喜多直家と共に備中の三村氏を攻め、天正3年4月 には三村元親の本拠・松山城を落とし、三村元親は自刃して果てた。 2.常山城主 上野肥後守隆徳 三村元親の妹婿、常山城主・上野肥前守隆徳は最後まで降伏しようとはせず、四国 の三好氏に援軍を求めた。 しかし、孤立無援の隆徳に加勢するものはなく、わずかの城兵で戦う以外に方法は なかった。 常山城から西方を望む この平野は、戦国時代には瀬戸内海であり、毛利氏の傘下村上水軍が行き来していた。 6月4日、小早川勢が備中を出発して備前児島に出陣。6月6日に常山城の大手門 近くへ攻め寄せたところ、鉄砲や弓で撃たれて多くの死傷者を出して退いた。 翌7日、夜明けとともに小早川勢は再び城攻めにかかった。寄せては大軍勢で押し 寄せてさたため、城側の形勢は次第に悪くなっていった。 このとき、隆徳の妻・鶴姫(三村元親の妹)は、よろいかぶとを身にまとい、国平の太 刀を帯び長刀を携えて討って出た。 侍女たちは止めたがきかず、侍女たちも続いて敵陣に突入していった。 それを見た城兵たちは、女性が討たれてはと敵陣に向かった。 しかし、城側の者は次第に倒されていった。鶴姫は、敵将に「もはやこれまで。この 太刀は用がなくなった。この太刀は国平の鍛えた三村家相伝の名刀。これを兵部殿 に進呈する。どうぞわれらが後生を弔って下され」といって太刀をその場に投げて城中 に引き返した。 そして鶴姫は刀を口にくわえ、打ちぶして自害した。城主・隆徳も切腹した。 こうして常山城は落ち、今も常山城跡には腹切岩、女軍の墓などの史跡が残っている。 この城はその後、宇喜多家へ譲渡され、家来の戸川秀安に守らせた。 腹切岩(本丸跡) 女軍の墓 参考資料:「新釈 備前軍記」 柴田一編著 「岡山城物語」市川俊介著 上記2冊では、上野隆徳が上月隆徳と記されている。 また、備前軍記注記には、三村上野介高徳とか、上野土佐守、上野肥後守 の記述を紹介し、結論として上月肥前守隆徳が採用されている。 このページでは、現地看板等を参考として、上野肥前守隆徳とした。 現在の常山城は、頂上まで自動車の通れる道がついているので、誰でも簡単に登頂 できる。 頂上は、巨大な鉄塔が石垣を破壊しているが、大きな城で、幾つもの郭があったことが うかがえる。頂上からの眺めは、西は倉敷以西の備中各地、岡山市内、岡山平野全面、 瀬戸内海東部海岸、備讃瀬戸、瀬戸大橋などほぼ360度見渡せる。 上り口途中に、戸川友林の墓所(友林堂)がある。