遊奇隊
備前藩にあつては、瀬戸内海沿岸の防備と、領内の警備のために多数の兵士を要する上に、他藩への出兵などで、益々兵士に不足する状態となったので、農兵起用をすることとした。
そして、慶応二年五月藩主池田茂政は、農民を以て銃隊を編成するよう命じた。
それによって、郡奉行等は大庄屋名主等を指揮して農兵隊を募り組織した。
始め農兵隊と構したが、十二月十七日耕戦隊と改名し、ついで明治元年七月十五日に遊奇隊と改称した。
慶応三年十二月備前藩は摂津西宮警備を命ぜられ、藩主池田茂政は家老池田伊賀、同日置帯刀に出動を命じた。
同時に、耕戦隊は、明治元年正月四日岡山を出発して神戸、尼崎を経由して、西宮に到着、二月十日西宮を出発して、十二日京都に入つた。
ついで東征軍の先鋒となって、東海道を過ぎ四月三日江戸に着、同四月には関東地方に、五月には上野・小田原・箱根等に転戦し、六月更に奥州に進撃し、磐城・二本松・若松等の戦闘に参加して、十月二十八日江戸に帰還し、十一月二十四日江戸を出発し、十二月十一日京都に入り、十二日参朝、十三日同地出発、二十一日岡山に凱旋した。