吉備と稚媛について

 岡山県赤磐市南部(旧山陽町)は、古代の遺跡の多い町である
 この町で 「稚媛の里」づくりが行われている。
岡山市では、歌劇「ワカヒメ」が上演されたり、このワカヒメについてクロー
ズアップされている。
 そこで、このワカヒメ伝説が、赤磐市の文化財と年代的にマッチするのか一
度調べてみようと思った次第です。



場所は、岡山県東部で山陽自動車道山陽ICの在るところです。
史跡としては、両宮山古墳など大和の巨大古墳に引けを取らない前方後円墳が
あり、備前国分寺跡、国分尼寺跡がある。
 そのことから、備前の中心としての「稚媛の里」づくりが生まれてきた。


1.両宮山古墳は、全長192m で、吉備の国では、造山、作山古墳に次ぐ
、5世紀後半の古墳である。
周濠1周濠を持つ両宮山古墳
周濠のある古墳

2.日本書紀に「吉備と稚媛」について、次のような記述がある。

上道国造の田狭は、自分の妻である稚媛の自慢をした
化粧をしなくても、こまやかに、さわやかにして、もろもろの好(かお)備わ
れり。あからかに、にこやかにして、くさぐさの相(かたち)足れり」田狭の言
葉を聞いた雄略天皇は、田狭を任那国司として派遣し、その留守に稚媛を宮中に
召し出し、妻とした。
稚媛は、田狭との間に、兄君(えのきみ)と弟君(おとぎみ)をつくり
雄略天皇に奪われた後、磐城皇子と星川皇子が生まれた。
そのことを知った任地の田狭は、新羅と組んで謀反を起こした。

討伐に、田狭の子供の弟君が派遣されたが、百済で自分の妻である樟媛に殺害
され、田狭も行方不明となった。

その16年後、皇位継承をめぐり、皇太子白髪皇子に対抗し、クーデターを計
画し失敗、稚媛、兄君、星川皇子などが、焼き殺された。
そのクーデターに、上道臣が関連したとして、「山部」を奪われた。
その後、急速に吉備の国は衰退していった。



年 表

457年  日本 雄略天皇即位  太歳丁酉
460年  倭王 興 即位(宋書)

461年 百済 「昆支」が兄の蓋鹵(こうろ)王に派遣されてヤマトに来た
      有王 −− 蓋鹵王
           |- 昆支 −− 末多(東城王)
                   |− 武寧(むねい)王(ムリョンワン)
461年(雄略 5年) 百済 武寧王が日本で誕生
       百済王 筑紫の加唐島に出生す
462年  倭王 興  が宋に遣使、宋の孝武帝に朝貢(宋書)

463年(雄略 7年) 百済から漢手人部、衣縫部らの献上
463年  下道臣前津屋の反乱 下道氏高梁川西に転地
463年  上道臣田狭の反乱 新羅と結ぶ

470年(雄略14年)漢媛、兄媛、弟媛 渡来
471年(雄略15年)秦氏 渡来
471年  「辛亥の年大王の宮で鉄剣を作らせた。」埼玉県行田市「稲荷山古墳」から鉄剣出土
475年  漢城は陥落 百済蓋鹵王 高句麗との戦で戦死 王子の文周南方へ

477年  百済 貴族の真桀取・木満 致らの努力によって、文周王が熊津で即位
478年  倭王 武 の上表文(宋書)
479年  筑紫の軍士500人をもって末多を護送して以来、積極的に百済復興を支援する。
479年  日本 雄略天皇崩御

479年(雄略23年)天皇後継をめぐって、「星川皇子の変」
      稚媛、星川皇子、上道国造兄君などの反乱
480年  日本 清寧天皇即位  太歳庚申(庚申480年)


5世紀後半の記述が正しいとすれば、両宮山とは、大和に対抗し、巨大古墳を
作り、表向き祭れない田狭と息子の弟君の両君主を、上道臣の威信を懸けて、
 祭り、両宮と称したとも思われる。
それ以後、「星川皇子の変」の後、吉備の衰退が激しく、巨大古墳は、出現し
なくなってしまう。


<<その時代の注目点の抜粋>>



■注目される生誕伝説

 昭和四十六年(一九七一年)、文教授が論文を発表する三十年ほど前、韓国の忠清南道公州市の宋山里古墳群で、新しい王陵が見つかった。
 それが、加唐島に生まれた武寧王の陵であった。この王陵の発見は二重の意味で関係者を驚かせた。
 その一つは盗掘を免れたため、(レンガ)を敷き詰めた美しい墓室や豊かな副葬品が残されていたこと。 もう一つは、墳墓自らが墓主を明らかにしたことである。玄室につながる道に置かれた墓誌石がそれで、これは土地の神から土地を買い取った契約書「買地券」とされている。
 誌石には「斯麻王」の文字とともに、在位二十三年(五二三年)に、六十二歳で崩御したことが刻まれている。その数字から逆算すると、武寧王の生誕は四六一年。これは『日本書紀』の記述と同じである。
 少なくとも、この時代の『日本書紀』の記事は正確であったことが証明されたのだ。


百済王 筑紫の加唐島に出生す
武寧王について 鎮西町教育委員会


百済と古代日本は、綿密な関係にあり、武寧王は百済中興の祖とあがめられている。 8世紀に編さんされた『日本書記』には武寧王が1500年前ヤマト政権との交流の途上、 鎮西町加唐島と推定される島において生誕されたことが記されている。 韓国では、その内容を事実というより説話的な話として受け止められ、あまり注目を浴びず、扱われていたが、 1971年に韓国・公州から発掘された武寧王の古墳からも、出生に関する同様の記録があり、 武寧王が加唐島で生まれたとの信ぴょう性が高まった。



昭和42年の岩波書店の古典文学大系の初版ですから、もう20余年前になります。
そのころは、「記 紀」の批判が真っ盛りだったから、当然、批判する立場から入ったのです。
しかし、研究を進めていくうちに「記 紀」はうそばかりではないと思うようになりました。
その1例をあげると1971年韓国の。。。。。略
武寧王は、523年に62歳で没した。逆算すると462年に生まれたことになる。
(出典:PHP文庫 「古代史の真相」 黒岩重吾著 より)


注目すべき点

@この時代の「日本書紀」の記述が真実であった。

 武寧王が生きた時代は、日本では雄略天皇の時代、つまり稚媛の生きた時代であり、
日本書紀に記述された、「吉備と稚媛の物語」の信憑性も、単なる神話から、事実では
ないかとの確信に変わた。

A吉備と稚媛の物語の時代、百済との関係が重視されていることがわかる。



6世紀以降の上道国



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作成者 藤本典夫