岡山県倉敷市玉島

西爽亭(倉敷市旧柚木家住宅)

江戸時代中期の庄屋建築の遺構を残す建物

西爽亭 玄関は、クリの座板を使っているそうです。(詳しく説明を頂きました。)
玄関奥にある次の間、明治維新で、幕府の老中板倉勝静公の家臣が、鳥羽伏見の合戦に破れ、海路、1月17日、備中松山藩領の玉島まで帰還した。1月11日すでに明治になっており、松山藩は、熊田恰以下の帰還を許さず、玉島で謹慎となった。同藩は明治政府の征討(岡山藩が実施)をうけ1月18日岡山藩が城と領地を接収するため出発する、まさにそのときであった。玉島も包囲された。
この軍勢を率いていた熊田恰は、この場所(次の間)で、備中松山藩の家臣団150余名の助名嘆願し、血書を書いて自刃した。
天井には、そのときの血痕をふき取った後ではないかと「説明の方」が力説された痕跡があった。

当時、山田方谷が備中松山藩を取り仕切っていた。
理財論、財政改革を実践するなど岡山県では、たいへんな偉人であった。
明治になって、方谷は、閑谷学校復興に尽くしたことでも有名。

*大阪から海路下津井港に到着後、陸路玉島に到着した説もある。
*家臣団159名の説あり。
庭と茶室、明治時代には、裏山から絶えず湧き水が流れて、その音を聞きながら、茶を楽しんだとのこと。




倉敷市玉島の見所

水島合戦古戦場

水島合戦古戦場(2)

良寛さんゆかりの円通寺

幕末の玉島(熊田神社)


岡山県倉敷市玉島
新幹線新倉敷駅が玉島地区の北部にあります。
西爽亭まで、車で10分程度


 
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作成者 藤本典夫