備中松山藩 山田方谷
(1805年〜1877年)
(1)
山田方谷とは、どのような人物か。
「よく知られていること」を紹介すると
@ 備中松山藩の人である。陽明学者。現在の岡山県高梁市の農家の出身であった。
A 産業を興し、備中松山藩を改革した。
B 信用のなくなった藩札を、買い上げ、領民の見ている川原で、大量の藩札を焼却した。その金額12億円分。
C 山田方谷の長瀬塾(岡山県高梁市)に駅ができる時、地元住民が嘆願し、昭和3年 鉄道省を説得して・・初めて人名の駅ができた。
D 幕末の天才で、「備中松山藩財政を改革し、借金は10万両を返済し、余財10万両を蓄財した。」
E 大久保利通から大蔵大臣をたびたび要請されたが断り続けた。
F 長岡藩 河井継之助も学びにきた。
G 方谷の信念「政(まつりごと)でもっとも大事なものは、民・百姓である。」
(2)備中松山藩の状況
@ 山田方谷は、今の岡山県高梁市、幕末には、備中松山藩の財政責任者になったが、その備中松山藩は表高5万石ながら実質2万石たらずで、藩は返す当てもなく借金を重ねていた。
A 大阪国税局 野島透氏(山田方谷の研究家 財政のプロ)
著書 「山田方谷に学ぶ財政改革」
備中松山藩の当時の財政状況
収入 |
支出 |
||
年貢米 |
22,000両 |
江戸表・松山役所費用 |
14,000両 |
その他収入 |
20,000両 |
家中扶持米 |
8,000両 |
借入金など別途 |
33,800両 |
借金利息 |
13,000両 |
|
|
役用金 |
13,000両 |
|
|
武備一切金 |
10,000両 |
|
|
異国船武備臨時金 |
5,000両 |
|
|
救米・荒地引米等 |
3,200両 |
|
|
道中往来費用 |
3,000両 |
|
|
その他費用 |
6,600両 |
合計 |
75,800両 |
合 計 |
75,800両 |
B借金は、10万両に膨れ上がっていた。
(3)山田方谷の略歴
@ 山田方谷は、幼いころから学問に秀でていた。29歳のとき、江戸に遊学、佐藤一斎の塾に入り、ライバル「佐久間象山」と毎日激論を交わしていた。常に山田方谷が論破していたと伝えられている。
A 32歳で江戸から戻った方谷は、藩校「有終館」の学頭に就任した。
以後45歳まで、藩主・藩士の跡継ぎの教育を行うなど、学者として成果を上げていた。
(4)備中松山藩改革断行
@ その方谷に、大きな転機が訪れた。嘉永2年 藩主の交代によって、養子である板倉勝静が藩主になった。勝静公から元締役に就任を要請され、ついに就任した。
そして、破綻寸前の備中松山藩の改革に乗り出した。
A 「義」に生き、義が発揮されるなら利益は後からついてくる。
理財論を表し、それを実践することで、改革を成し遂げた。
B 最初に取り組んだのが、負債整理でした。 嘉永3年(1850年)春、大阪に向かった。これまでの備中松山藩の財政状況を説明し、借金10万両の猶予を申し入れた。
「わが藩は、表高5万石であるが、実際は2万石にもみたない。このようなことを表ざたにすることはないのだが、この場は隠し遂せたとしても、借金が返済できなかったなら、信義にも劣る。
借金は必ず返済する。踏み倒すつもりは毛頭ござらん。伏してお願い申す。その手立てだが、米に頼らず、産業を興せば必ず借金は返せる。」
大阪商人は、示した再建計画(産業振興策)が緻密で、商人たちの心を動かした。そして、利子の免除、50年の借金棚上げを承認した。
「産業振興策」その内容は、備中にある砂鉄を使って、当時の人口の80%を占める農家を相手にした農具の商品開発である。備中鍬の誕生であった。
備中鍬は、3本の大きなつめを持ったホークのような鍬で、従来の鍬に比べて、土を掘り返すのに適した便利な鍬である。従来品に比べて作業効率がよい備中鍬の生産は、借金を返済できる大ヒット商品となった。
「政で大切なことは、民を慈しみ、育てることである。それは、大きな力となる。厳しい節約や倹約だけでは、民は萎縮してしまう。」
農家出身ということもあり、農家の気持ちがわかった為政者であった。
また、自ら開墾を行い、農産物の特産品づくりに精を出した。
タバコ、茶、こうぞ、そうめん、菓子、高級和紙など、その特産品に「備中」のネーミングで売り出した。ブランド品の誕生です。
販売方法についても、山間の小さな藩が外国船を購入し、江戸に物資を運び、板倉江戸屋敷で直接販売する方法を確立した。西国の藩は、産物を大阪に卸すのが常識であった。
方谷は、商品を江戸に持っていった。江戸での直接販売に目をつけた。中間マージンを排除し、安いよい品を直接消費者に販売した。それによって利益を上げた。
いまのアンテナショップの開設である。
また、備中松山藩内に「撫育局」を設置し生産・流通・販売を藩の直営とした。商業が低く見られていたこの時代、藩そのものを会社組織に変えた。
S氏のコメント
「現在の官僚が言っていることは、絶望悲観論であり、有ることを固定して、ずっと先を考えると、必ず財政は破綻する。
消費税はうんと上げないといけない。年金は払えなくなるし。というような確定的絶望悲観論というのが今非常にはやっている。
山田方谷の時代の備中松山藩もそのまま ずーと 延長していくと「年貢はいくら入る。利子はいくら払わないといけない。」というような「現状の延長」で考えると絶望的であるが、山田方谷は、どこかに売るものがある。流通機構を考える。借金をしているところを説得する。
そのような、いろんな方策を考えていく、健全な楽観論は、現在の官僚が学ばないといけない。あらゆる方策を考えて、健全化していくところに学ぶべき点がある。
C その後、藩札の信用回復に手をつける。
商品の売り上げの資金があったので、藩札を通常の価格で交換した。その、回収した藩札700貫いまなら12億円という藩札を、河原で焼却した。そのことで、藩札の信用回復、交換ができる量だけ藩札の発行を実施した。新しい藩札は、一気に流通し、経済の混乱が収束した。
K氏のコメント
方谷は、計画を立てて、長期ビジョンを持って、パフォーマンスをした。ビジョンがないと、闇雲にパニックをあおるだけになる。
D 農民からの取立てを減らし、商人への税を増やす一方、武士の俸禄を減らし節約を命じた。松山藩の藩士たちの反感を買うこともしばしばであった。
「山だし(山田氏)が
何のお役に立つものか
子(へ)のたまわくような
元締
お勝手に
孔子孟子を引き入れて
尚このうえに
カラ(唐)にするのか」
武士たちをさらに怒らせたのは、辺境の地の開墾にあたらせたことで、たびたび命を狙われた。
また、方谷が賄賂をもらっているとのうわさが立ち、清廉潔白を示すために、方谷は、家計を第3者に任しガラス張りにし公開した。
「藩政改革で最も重要なことはなにか。」の問いに
方谷曰く
「義である。おきてや約束を必ず守ることも義。この後、どのような国づくりをするのかを明らかにすることも義の1つである。財貨を求めることは、利益つまり利であって義ではない。倹約、倹約というがただの倹約では意味がありません。義あっての倹約でなければならない。」
方谷の理財論では、その義について論じられている。
E 方谷は、軍事面でも先進的であった。
農民で組織する「里正隊」をつくり、その装備は、イギリスの最新式の銃であった。西洋の力を認め、藩政改革に積極的に組み入れた。教練についても、西洋式を取り入れ軍事教練を実施した。のち、長州藩の奇兵隊のモデルになった。
特産物の収入を元に、備中松山藩は20万石の力を持つとまで言われた。
F 安政元年 備中松山藩の総理大臣にあたる「参政」に就任した。
軍事、教育の改革を行った。画期的なのは、農民、商人などの民衆の教育に力を入れた。
家塾13、寺子屋62は、近隣の大藩の数を上回った。
そして、その身分に関係なく、優秀な生徒は、役人に抜擢していった。
G 方谷は、大きなひょうたんを常に持って歩いた。妻には逃げられ、貧しい生活をしていた。また、久坂玄瑞、桂小五郎など勤皇の志士たちとも手紙のやり取りがあった。
備中松山まで、教えを受けにきた、越後長岡藩の河井継之助は、戊辰戦争で負傷して亡くなるとき、次のような言葉を残した。
「備中松山に行くことがあれば方谷先生に伝えてくれ、生涯先生の教えを守ったと」
明治になってから、河井継之助の慰霊碑の碑文を方谷に依頼が来た。
方谷は、断り次の文を送った。
「碑文(いしぶみ)を書くも はずかし 死に後れ」
弟子継之助の男を貫いた者に対する方谷流の言葉であった。
一方、備中松山藩は、無血開城した。明治になって、大佐町に居を移し、塾を開き多くの人材を育てた。
明治10年6月 享年73歳
幕末活躍した山田方谷も、度重なる明治新政府の大臣就任要請を断り、ついに、中央に出て行くことはなかった。
そのため、一部の研究者を除いて忘れ去られていった。
150年を経過して、再び、山田方谷の手法を学ぼうとする多くの人が出てきている。
「まとめ」
山田方谷は、目先のことにとらわれずにあるべき目指すべき姿を明らかにして、改革を進めた。人々の信頼を得ることこそは、やがては経済発展につながるとして、信、義を最も大切にした。方谷は、現在でも多くに人々に尊敬され親しまれ続けているのは、方谷自らが、生涯に渡って義の姿勢を貫いたからであった。
幕末という激動に時代を駆け抜けた「山田方谷」
その人物の精神や生き方は、今不況に苦しむ日本再生の知恵を教えてくれている気がする。