山中鹿之助
場所:高梁市
高梁市街から国道180号線を総社方面に向けて少し進み、
すぐに、国道313号線との分岐交差点があり、
それを成羽方面に向けて、橋を渡り、すぐのところ
尼子氏と歴史年表
永禄5年(1562) 毛利軍、出雲国尼子領に侵略開始。
永禄6年(1563) 毛利軍、白鹿城を陥落。
永禄7年(1564) 毛利軍による、月山富田城の包囲戦。
永禄9年(1566) 尼子軍、毛利軍に大敗、開城降伏する。
尼子義久 9年11月28日、ついに毛利の軍門に降った。
その後、弟の倫久、秀久とともに安芸の円明寺に移され、以後16年間幽閉された。
後に許され、毛利氏と共に長門に移り、阿武郡奈古に1292石を与えられ客分となった。
永禄12年(1569) 山中鹿之助(25歳)、京都より勝久(17歳)を還俗させ、出雲に帰還。
尼子家再興を目指す。
元亀元年(1570) 布部山の戦いで尼子軍、毛利軍に大敗。
元亀2年(1571) 毛利元就、吉田郡山城で他界(享年75歳)。
天正5年(1577) 春 宇喜多直家 西播磨進出 上月城攻略
天正5年10月 羽柴秀吉が播磨進出
天正6年(1578) 1月〜7月 上月城攻防 毛利・宇喜多6万5千、織田方 秀吉4万援軍8万
天正6年2月 播磨の豪族別所長治(所領約24万石)が秀吉に反抗して三木城に籠城を決意
天正6年3月 毛利・宇喜多連合軍上月城に進出
天正6年7月 羽柴秀吉4万 姫路に引き上げ、上月城を見捨てる。
上月城の尼子勝久自害、山中鹿之助降伏、高梁市で殺害された。(享年34歳)
天正6年9月 宇喜多直家 虎倉城主 伊賀久隆(宇喜多氏家臣、所領約15万石)殺害
宇喜多氏と毛利氏との完全な手切れ
天正6年10月17日 秀吉の副将摂津国有岡城 荒木村重 毛利、本願寺に通じる。
天正6年11月 毛利氏が備前に侵入
天正7年(1579)2月 毛利氏、三木城に兵糧を届けようとするが失敗。
このあともたびたび実行する。
天正7年2月 美作の城攻め
天正7年6月13日 秀吉の参謀、軍師の竹中半兵衛 三木で病没(享年36歳)
天正7年8月 毛利氏が備前に進入(辛川合戦)
天正7年10月30日 宇喜多直家が織田氏の配下に入る。
天正7年(1579)11月 有岡城陥落
天正8年(1580)1月15日 三木城落城 別所長治自害
天正8年8月 小早川隆景が児島常山城に侵攻
天正9年(1581)4月 児島八浜合戦
天正10年(1582)春 備中高松城を攻める。(備中高松の水攻めで有名)
兵庫県佐用町上月城 山中鹿之助追頌之碑
山中鹿之助 首塚(福山市鞆の浦)
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作成者 藤本典夫