下津井城址
本丸跡
本丸の階段と石塁
下津井城築城について
@池田長政(河内守)について(赤磐郡誌より)
池田輝政の四男にして、天正3年(1575年)尾州犬山に生まれ、9才にして片桐俊元(片桐半右衛門一長)の養子となる。
故に片桐家の稱(称)あり。慶長2年 俊元卒去後、参州新庄にて七千石を領す。
慶長5年(1600年)関が原合戦で、上杉景勝を討ちて功あり、一萬五千石を加増せられ、播州赤穂の城主となる。
同8年(1603年)、池田輝政備前を領するに及び、その執政としてこれに従い、下津井に城きて居す。
そのとき、一万石を加増せられ、三万二千石を食む。
その後、江戸及び駿府の築城に従事す。
慶長12年7月20日伊勢国庄野庄にて卒す。
A池田長明(伊賀守)長政の子
慶長11年(1606年)下津井に生る。翌年父を喪い、2歳にして家督相続、下津井は、西国の要地なれば、幼者の在城難しとて、城附一万石を返上して、播州平福に移され、諸氏をば、此地に留め、母子共に予州松山に行き、祖父加藤嘉明の許に養はる。
8歳のとき(慶長18年(1613年)この年正月池田輝政卒し、利隆姫路に入封す。)、播州龍野を預りて之に居り、
尋で、大阪冬・夏の両役に従う。
後、備前に帰り周匝(岡山県赤磐市)にて禄二万二千石を食む。
延寶7年3月6日大阪にて卒去す。爾後子孫相次ぎ、長準(11代当主)家督相続の後、間もなく明治維新となる。
その後、下津井城は、
元和3年(1617年) 池田光政 鳥取に移封
家老・池田出羽は、米子に在城。元和4年池田出羽・日置豊前が仕置職につく。
寛永9年 池田光政 岡山に移封(後池田氏時代誕生)
この間の記録がよくわからないが、家老池田出羽が下津井にいたものと思われる。
家老の配置は、
一 池田氏(出羽) 三万二千石 下津井のち天城(倉敷市)
池田信輝の孫で天正17年家老になる。
二 伊木氏 三万三千石 虫明(邑久町)
三 池田氏(伊賀) 二万二千石 周匝(吉井町)
以下略・・・備前には6人の家老あり。
寛永16年(1639年)児島郡天城陣屋を設置し、家老池田出羽、下津井から移る。
寛永17年(1640年)遠見番所を下津井・牛窓に置く。
岡山藩家老、池田出羽の配置に注目すると、江戸初期、備前においては下津井を重視していたことがわかる。
寛永16年の天城陣屋設置は、このころ児島湾の干拓が本格化したことと、岡山城下に港ができて、船が高梁川河口から岡山にまっすぐ入ってきたのではないか?
相対的に、岡山藩にとって、下津井港の重要度が減少した。
下津井城址は、周りを高い木に覆われて、海は見えない。
西の丸のところからだけ、外がよく見えました。(合成写真があまりうまくなくてごめんなさい。)
東に瀬戸大橋が見えます。