備前の国 安国寺跡  岡山市鉄(くろがね)


 足利幕府は、南北朝の戦乱による戦没者の冥福を祈り、荒廃した国土に再び安寧を呼び戻そうと全国66カ国と2島に安国寺が設置され、備前の国にも、当地に安国寺が建立された

暦応元年(1338)から着手し、10年目の貞和年間(1345〜50)、全国66ヵ所に建立された。


  まったく読めない看板

備前の国 安国寺由来  (概要)

足利尊氏は、軍略上全国に1国1寺1塔を計画していた。
観応元年(1350年)尊氏が九州の子息 直冬を討つため
備前の国福岡に陣し、直冬の軍と対陣するに至る。

尊氏の命を受けた薬師寺公義が備前の国安国寺を建立したが、
応仁の乱ののち、備前地方は、兵乱が続き、明応年間(1492年ごろ)
焼失した。


(注)観応元年(1350)
 観応の擾乱は南北朝時代の観応元年、尊氏の子で弟直義の養子になっていた長門探題の足利直冬が九州地方の豪族を従え、備後国鞆に拠って尊氏に反した事件である。尊氏は直冬を追討するため、京都を発し、各地の豪族に応援を求めながら山陽道を西下した。


  



この時代の出来事

延元三年(1338)  北畠顕家、新田義貞 討死
延元四年(1339)  後醍醐天皇崩御
貞和五年(1349)  高師直が足利尊氏に迫って弟の足利直義を引退させる。
             直義の養子直冬が、九州の豪族 少弐頼尚の援助を受けて
             西国で挙兵
観応元年(1350)  直義党の上杉憲顕・能憲父子が関東で挙兵、直義も南朝
             に帰順して河内で挙兵する(観応の擾乱)
観応二年(1351)  直義、尊氏を破って和議が成立
             
同年八月和議が破れ、直義は北陸へ逃れる。
             尊氏は南朝に降伏して直義追討の命を受ける。
             南朝が一時、京都を武力で制圧(正平一統)。
             同年十一月、直義は鎌倉に入り、翌年正月、尊氏も鎌倉に
             入って直義と和睦。翌月、直義逝去
文和元年(1352)  新田義宗・義興と脇屋義治が宗良親王を奉じて
             上野国で挙兵。(武蔵野合戦)
延文三年(1358)  尊氏没。新田義興が関東執事の畠山国清によって矢口渡で
             謀殺される。
延文四年(1359)  畠山国清が関東の諸将を率いて畿内南朝軍の制圧に
             当たるが失敗。
             仁木義長を南朝に走らせる事態を招き、失脚。
貞治六年(1367)  足利義満が将軍となり、細川頼之が管領となる。



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作成者 藤本典夫