兵庫県上郡町落地(おろち)


古代山陽道 野磨(やま)駅家

古代山陽道が落地を通過していた。
この地で、掘立柱建物群が発見され、野磨駅家跡と目されている。(落地八反坪遺跡)
その後、東側の飯坂峠に近いところで、瓦葺の野磨駅家が発見された。(落地飯坂遺跡)


中央に旧山陽道があり、両側に側溝が整備された10m程度の古代山陽道があったことがうかがえる。


落地の東側、飯坂峠に近い場所では、現在も発掘調査が行われている。
(落地飯坂遺跡:瓦葺の野磨駅家跡)
古代は、加古川まで吉備氏の勢力下であったため、明らかに平安時代になっても、野磨と書いて、ヤマと読ませ、巨大な蛇(オロチ)の話を伝えている。
都からは、出雲神話の入り口の地として有名であった。
古代の山陽道が最大の難所「船坂峠」を越える手前の駅家であり、荷馬車が盗賊に襲われたり、大宰府に向かう公家が殺されたりしたため、恐ろしい場所として、紹介された。

 (建物の構造について)
建物は礎石などの並びから幅15b、奥行き8.4bの規模で、門や塀との位置関係から正殿とみられる。同時に出土した土器から8世紀後半〜11世紀に使われたと推定される。門は幅8.4b、奥行き4.2bあり、扉の軸を受けるための穴が掘られた礎石も残っていた。 礎石の配置から、法隆寺東大門や東大寺転害門とほぼ同じ造りとみられる。

古代山陽道駅家の成立について

大宝元年(701)の大宝律令(及びその改良版の養老律令)の
厩牧令(くもくりょう)

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作成者 藤本典夫