江戸時代の代官をいまも祭っている町 真庭市(久世)
早川八郎左衛門正紀
天明7年(1787年)6月に美作国久世の代官となる。翌年、備中国笠岡の代官を兼務。
管内農村を親しく巡回し、経済的精神的に荒廃した状況の復興につとめる。
美作の人口は、享保6年19万4000人が、早川代官就任時、15万人余となっていた。
倹約の奨励、赤子間引き禁止を説き、庶民の教育につとめた。
1791年教諭所設立、5年後典学館に名称変更し教育の振興に尽くした。
寛政11年(1799年)3月には、農民に対する説諭書(農民の心得)で全7ケ条「久世条教」を出版した。
また、地域産業の振興につとめた。
代官在任は、14年間に及んで、領民から代官への留任願いが4回もおこったほど広く民衆に慕われた。
享和元年(1801年)武蔵国久喜(現埼玉県久喜市)に転任した。
地元では、毎年、この銅像の前で、早川祭が行われている。