枕草子第11段

(注)
本文に「
備前国、備中国の両国に跨るように、吉備の中山(なかやま)があります。この中山は、王朝の昔より天下の名山として都人にも知られていました。
と書きましたが、いつの頃から都人に知られたのか諸説があります。

枕草子は、作者清少納言は、生没年不詳ですが、本文に藤原行成(972-1027)が登場するので990年〜1,010年頃の平安時代に作成された。

 『枕草子』第11段「山は」の段に、「吉備の中山」を記載している写本 と 掲載していない系統がある。
「吉備の中山」を載せているものは、伝能因本系統、堺本系統、前田家本とよばれるもので、主に江戸時代の写本であるらしい。
また、もう一方、「吉備の中山」が無く、「山は」が第10段になっている「三巻本系統」がある。
この原本に近いといわれる「三巻本系統」には、「吉備の中山」は掲載されていません。そのことから、枕草子原本に「吉備の中山」が掲載されていたかどうか疑問があります。

つまり、枕草子で紹介されているからといって、平安時代に、「吉備の中山」が名山として全国に知られていたか疑問である。
すくなくとも、 『枕草子』第11段の写本が完成した江戸時代前期には、「吉備の中山」が名山として知られていたことは、明らかです。

次に、鎌倉時代に成立した平家物語では、

治承元年八月十九日、備前・備中両国の境、庭瀬の郷、 吉備の中山という所で成親(新大納言)が惨殺されたことと、その子丹波の少将成経が鬼界島から流罪を許されて京に帰る途中、吉備の中山に立ち寄り、殺された父親「藤原成親」を供養した「孝子成経」の物語が悲しく描かれている。

鎌倉時代には、吉備の中山が、広く知れている。


慶安二年版 清少納言 枕草子 (吉備の中山が掲載されている写本)


山は


おぐらやま 三笠山 このくれ山 わすれずの山 いりたち山
か勢やま ひえのやま かたさり山こそ
+++++++++++をかしけき

いつはたやま のちせのやま かさ取り山 比らの山 とこのやまは
 わがが名もらすな と帝のよま勢給ひけんいとをかし

いぶきの山 あさくらやま よそ見るぞをかしき

いはた山 おほひれ山もをかし
+++++++++++++++らるべし

手向山 三輪の山 いとをかし おとは山 まちかね山 みのゝおやま はゝそ山 くら井山
きびのなかやま(吉備の中山) あらし山 さら志のやま おはすて山 をじほやま 
あさまのやま かたゝめ山、かへる山 いりせ山

注)+++++は、省略部分





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作成者 藤本典夫