吉備の国解説その3(14世紀から)
吉備の国の紹介では、吉備の古代について、識者の言葉を紹介した。
また、吉備の国解説その2では、
古 代 :出雲族(温羅)は吉備津彦に征服されて、鬼にされた。 古 代 :吉備津彦(桃太郎)の子孫ー上道氏、下道氏は、雄略天皇に征服された。 古 代 :星川皇子の変(上道氏の支援を得て、皇位を狙ったが焼き殺された。) 奈良時代:吉備真備(716年唐に留学、735年帰朝。ようけの典籍、武具、楽器をもたらす。その後中央で活躍) 奈良時代:和気清麻呂(769年宇佐八幡宮の神託をもたらし道鏡の野望を退けたことで有名) 平家物語:平家に忠節を尽くしたため、歌舞伎で悪役となった妹尾兼康 承久の変:隠岐に流された後鳥羽上皇を支援した刀鍛冶集団(菊一文字) 太平記 :尊王思想の代表で、南朝に忠節を尽くし、足利幕府に逆ろーた児島高徳 |
---|
ここまで、吉備の国解説を人物中心で行った。
どの人物も、時流に乗り遅れたり、筋を通した人物が多いことに気がつく。
今回は、その続きということで、
承久の変:隠岐に流された後鳥羽上皇を支援した刀鍛冶集団(菊一文字) 太平記 :尊王思想の代表で、南朝に忠節を尽くし、足利幕府に逆ろーた児島高徳 太平記:足利氏に味方した赤松円心は、備前国、美作国、播磨国の守護となった。 戦国時代:関が原の合戦で、西軍の大将となった宇喜多秀家 幕 末 :最後まで幕府に随った備中松山藩(板倉勝静、山田方谷) 昭 和 :515事件の犬養木堂(犬養毅)軍拡一方の軍部に反対し、中国に理解を示した) |
少し、前回と重複するが鎌倉時代から太平記の時代
全国各地に「太平記の里」が造られ、華々しい軍記が登場する。
この時代に登場する吉備の代表としては、児島高徳である。この太平記をまとめたんが、児島高徳自身もしくは一族との説がある。
1)太平記を編集した人物は誰か。
全国を行脚し、太平記は、当時の日本列島を西から東まで、各地の出来事を、詳細に描ききった。
備前の修験者がその一端を担っている可能性があるのは、
承久の変:隠岐に流された後鳥羽上皇を支援した刀鍛冶集団(菊一文字)からの伝統がある。
後鳥羽上皇と備前刀工の関係は、全国の武将に、名刀を授与し、何かあったら味方せよと全国に発信していた。
その運搬役が、修験者であった。
全国どこでも出没し、全国ネットワークを持っていた。
その相手の武将から、備前名刀の注文を受け、全国どこでも届けるシステムが出来上がっており、
製造から販売までネットワークが確立していた。その結果、備前長船の刀剣が多く国宝になった。
その修験者が、全国の武将の武力、南北の色分け、家柄などを詳細に調べ、報告していたものと思われる。
新熊野山(後鳥羽上皇)
新熊野山(五流尊龍院)
太平記で活躍した児島高徳
倉敷市林に、修験道場があり、修験者が全国を駆け巡り、情報収集を行っとった。
鎌倉時代、天皇が幕府に反旗を翻した「承久の変」のとき、天皇の皇子が流罪された地であり、その後その末裔が、修験道を運営しとった。
皇族の末裔であり、児島の地に生まれ、徳の高い武者、児島高徳として全国を飛び回った。
この人も、滅びる側(南朝、脇屋氏)についていた。
2)太平記探訪
太 平 記 探 訪 執権北条氏の鎌倉幕府は、だんだんと色を失い、新勢力が台頭してきた。 そして、建武の親政、室町幕府の誕生、南北朝時代へと時代は大きく動き、そこには、 幾多の物語が盛りだくさんに描かれている。 第1節 後醍醐天皇、岡山県を通過(美作国一帯) 第2節 院ノ庄(美作国津山) 第3節 後醍醐天皇、隠岐を脱出、伯耆の国に名和長年がいた。 第4節 京都六波羅陥落、北条仲時の最後 第5節 播磨の国、書写山円教寺に一泊、その後京都に帰還した。 第6節 赤松円心の野望(播磨国上郡) 第8節 児島高徳 熊山に立つ(備前国熊山) |
〔伊賀氏略系図〕 |
---|
伊賀光季は、「承久の変」のとき京都守護で登場し、上皇の招聘に応じなかったため、
1221年5月15日に官軍によって屋敷を襲撃され、子の伊賀光綱と共に自害を余儀なくされた。
光季自身が北条義時の義兄に当たったことから、幕臣として重用された。
この後、1294年頃から備前に定着した。
岡山市御津町 虎倉城
5)戦国時代に突入
備前の守護、赤松嘉村が力を失い、その守護代である浦上村宗が勢力をつけてきた。
三石城主浦上村宗:亨禄4年(1531年)8月摂津で討ち死した。
備前市木谷に葬る。
2人の息子は、三石城から播州室津に移ったが、長男 浦上政宗と、次男 浦上宗景が不仲になり、宗景が天神山城に居住した。
その後、浦上宗景が、天神山城を中心に備前を支配した。
浦上氏の居城 天神山城略年譜
https://www.kibi-guide.jp/fujimoto/nenp/nen2.htm
その家臣に宇喜多直家がおり、主家(浦上氏)を凌駕するまでに力をつけて、
明禅寺合戦(1566年)、金川松田氏の攻略(1568年)、作州攻略(1569年)、
虎倉合戦(1574年)、常山合戦(1575年)に勝利し、ほぼ備前を制圧した。
兵庫県佐用町上月の合戦、玉野市八浜合戦、備中高松城の攻防へと続く。
戦国時代 後期 <<特集>> 第1節 岡山の戦国時代年表(歴史小説の比較から) 第2節 岡山市御津町 虎倉城 第3節 赤磐市周匝 茶臼山城攻略 第4節 岡山市沼 亀山城 第5節 備中高梁 山中鹿之助の墓 第6節 玉野市 常山城 第7節 玉野市 八浜合戦 第8節 玉野市八浜 与太郎神社 第9節 岡山市 備中高松城 第10節 岡山市 岡山寺(宇喜多直家公墓) <兵庫県> 第1節 直家が上月城を攻める。尼子勝久立ち退き 第2節 兵庫県佐用町上月城 山中鹿之助追頌之碑 第3節 三木城包囲の本陣平井山で竹中半兵衛死去 第4節 別所氏滅亡。三木城陥落 <広島県> 第1節 備後鞆の浦 山中鹿之助 首塚 <鳥取県> 第1節 鳥取鹿野 山中鹿之助の墓 |