吉備の国解説その2(4世紀から14世紀まで)


吉備の国解説その1 では、吉備の古代について、識者の言葉を紹介しました。
司馬遼太郎は、「吉備という語感がたまらなく好きである。」と言っていました。

この「吉備」は、桃太郎の鬼退治の時代から、現在まで、約1700年が経過している。
この間、「吉備の国」には、歴史と史跡が積み上げられた。

有名な場所もあれば、地元でも知らない歴史がある。
「吉備の国」は、旧国名では備前国、備中国、美作国、それに広島県の備後国から成り立っている。

歴史は、どこでもどこの国ても、探せば探すほど、訪ねれば訪ねるほど歴史ロマンが広がる。
「吉備の国」 皆さんご存知かな。

休みを利用されて、瀬戸内の穏やかな風景を訪ねていらっしゃい。 
「岡山県」吉備の国を探訪してみたら。

予備知識は、「吉備の国探訪」をインターネットで探訪してください。
質問は、メールでどうぞ。


<吉備の国はどこにあるか>

地方:中国地方>県:岡山県と広島県東部

中心地

備前国(赤磐市、岡山市、玉野市、備前市)
備中国(新見市、倉敷市、総社市、高梁市)
美作国(津山市、美作市、真庭市)
備後国(福山市、尾道市、三原市、三次市)


中心の神社(一宮と呼ばれとる神社)
 備前国
   岡山市 吉備津彦神社
   安仁神社(岡山市西大寺一宮)
   赤磐市 石上布都魂(いそのかみふつみたま)神社
 備中国
   岡山市 吉備津神社
 美作国
   津山市 中山神社
 備後国
   備後一ノ宮 吉備津神社(福山市新市町)
   備後国 素盞鳴神社(疫隈国社)(福山市新市町)
    (備中の吉備津神社の分霊を疫隈社(素盞嗚神社)の領地に造営)




吉備の国は、現在の岡山県と広島県の東半分
旧国名では、備前国、備中国、美作国、広島県の備後国から成り立っている。


吉備の国探訪は、岡山県を中心に編成しています。


<各時代の人物>


古  代 :出雲族(温羅)は吉備津彦に征服されて、鬼にされた。
古  代 :吉備津彦(桃太郎)の子孫ーー上道氏、下道氏は、雄略天皇に征服された。

古  代 :星川皇子の変(上道氏の支援を得て、皇位を狙ったが焼き殺された。)
壬申の乱: 672年吉備の国の軍団、吉備太宰などが少しだけ記述されている。

奈良時代:吉備真備 716年唐に留学、735年帰朝。多くの典籍、武具、楽器をもたらす。その後中央で活躍)
奈良時代:和気清麻呂 769年宇佐八幡宮の神託事件では、権力に恐れず朝廷を守り、流罪になった。
       その後、京の都を造る現場監督として有名
       現在、和気清麻呂の巨大な銅像が皇居の北東を守る場所に建っている。
     ◆同じく皇居の南東を守る 華々しい楠木正成の銅像に比べて、注目されていないのが吉備人らしい。
平家物語:妹尾兼康 平家に忠節を尽くしたため、歌舞伎で悪役となった武将 
承久の変:備前刀鍛冶 隠岐に流された後鳥羽上皇を支援した刀鍛冶集団(菊一文字で有名)

太平記 :児島高徳 尊王思想の代表で、南朝に忠節を尽くし、最後まで足利幕府に逆らった。
戦国時代:宇喜多秀家 関が原の合戦で、西軍の総大将となった。

幕  末:板倉勝静・山田方谷 最後まで幕府に随った備中松山藩
昭  和:犬飼毅元首相 515事件勃発(軍拡一方の軍部に反対し、中国に理解を示した)




<古代からの吉備の国紹介>

(神話の時代から)
神武天皇の東征の時、3年間住まわれた高島宮が吉備にある。
候補地は、笠岡市高島、岡山市高島、岡山市児島湾高島である。

児島湾高島「日本書紀巻第3」   


235年乙卯(きのと・う)春3月6日に吉備国に移られ、行館(かりのみや)を造っておはいりになった。


 だから、吉備の国があったと言っても、神話の世界といわれる日本書紀だけでは、不十分です。 吉備の国が実際にあったかどうか、その証が、前方後円墳の原型といわれる弥生墳丘墓が倉敷市にある。楯築の弥生墳丘墓だ。


楯築の弥生墳丘墓ーー矢藤治山古墳(墳丘墓)ーーー前期の前方後円墳
(円墳に2つの突起)  (円墳に1つの突起) (円墳に1つの突起部が大きくなった)


弥生時代の墳墓から、前方後円墳にかわろうとする過程がわかる貴重な墳丘墓である。
  *)矢藤治山古墳ーー岡山市西花尻・東花尻にある.
     弥生時代後期の墳丘墓で、前方後円墳の初期の姿がわかる。
     墳長約35.5m、後円部径約23.5m、後円部高約3 m

弥生時代から古墳時代に移るとき、墳丘墓も巨大化していった。
ここから、古墳時代の巨大古墳へと発展した。



つぎに、桃太郎の登場。 (吉備の中山特集)

 吉備の国と聞いて、まず思うのは桃太郎である。勇気があり、犬、サル、雉を従えて、鬼が島に鬼退治に出かけた。
その地が、愛知県、または香川県との説もあるが、岡山県との説も有力である。

 桃太郎の話が岡山県とすると、怖い鬼のすみかがその地にあって、鬼に抑圧されて生活していた住民がその地があったことになる。
桃太郎が、鬼退治してくれてありがたいことになる。(鬼が島はどうなったとの反論もあるが・・・・)

 逆に、桃太郎を征服者、鬼を被征服者とみると、鬼と仲良く暮らしていた吉備の国を桃太郎が攻めて征服したことになる。
桃太郎と鬼の違いは、桃太郎は、天皇の皇子であり、鬼は出雲族の王であり、歴史から消された。

 吉備の国には、昔からこのような戦争に負けた伝承があるし、肝心なところでは、よく負組に組している。
 吉備の国柄が形成された感がある。

 この桃太郎に例えられるのが吉備津彦命であり、大和から派遣されて、大和朝廷と対抗していた「吉備王国」を征服した。
征服者である吉備氏は、やがて吉備の偉大な王となり、征服された前の王を「鬼」と呼んだ。

それが、310年頃の話である(筆者の仮説)。征服された前の王は、吉備の先住民の出雲振根(百済の王子温羅)であった。
天皇の皇子とその子孫が統治する吉備の王国が出来上がった。


 歴史年表 (作者の仮説ですので、細かい年号より時代背景、経過を参考にしてつかあさい。)


この時代に想いをはせて、古代吉備の伝承地をたずねると、他の地域にはない雰囲気が味わえる。
鬼の伝承地も数多くある。(あまり、時代考証、年代のことは、気にせんと楽しめる)

 総社市 鬼ノ城   鯉食神社ほか


 新しい王の桃太郎は、「吉備王国」を作り、大和朝廷の親族として、 娘を天皇に嫁がせることで、地位を築いている。
古代古墳を見ても、大和より巨大な古墳を作り,まさに「吉備王国」がそこにあった。

 吉備津神社 


大和の古墳にも、吉備出身の皇后を祭るため「吉備方式の円筒埴輪」を配置しており、吉備の影響が色濃く出している。

箸墓古墳は、倭迹迹日百襲媛がまつられているが。この媛の弟が「吉備津彦」と「若武吉備津日子」
つまり、吉備津彦と兄弟の墓である。そこには、吉備の埴輪が並べられている。

後円部から、「特殊器台」という吉備の特徴があるものが出土した。
宮内庁管轄地だが、台風で被害を受けてでてきたらしい。

景行天皇は「若武吉備津日子」の娘  「播磨稲日太郎姫」(播磨稲霊(印南)大郎女)を皇后し、日本武尊が誕生する。

吉備の国は、温暖な豊かな土地である。大陸からの移住者が鉄の加工を手掛け、その技術を受け継いで工業生産も多い。
つまり国力がついた地域である。

朝鮮半島の移住者の技術は、吉備で定着し、大和に進出していった。
それからしばらくして、大和朝廷との良好な関係を築いてくるが、造山古墳をこしらえた時代は、大和を凌いでいたとの説もある。

5世紀はじめ頃、前方後円墳が一時期いっせいに方墳に変わる。 (浦間茶臼山古墳に代表される「前期吉備の古墳」について
(理由は、はっきりしないが、政変なり、移住があったのは間違いない。)

前期古墳の王とまったく違う支配者が出てきたのか。
それから、5世紀後半になると、また巨大な前方後円墳が造られる。


 岡山市 造山古墳   総社市 作山古墳

そして、段々と大和朝廷に対抗できる「吉備王国」が出来上がったそのとき、またしても大和朝廷に征服されることとなる。

463年頃、雄略天皇の時代、吉備氏の跡継ぎの下道氏と上道氏の反乱で、両方とも征服された。
おなじ年に、下道氏、上道氏と相次いで滅ぼされたのである。

反乱をしたことにされたかも知れない。

そうするうちに、雄略天皇崩御とともに、479年(雄略23年)天皇後継をめぐって、「星川皇子の変」がおこり、
吉備氏出身の「稚媛、星川皇子、上道国造兄君」が反乱を起こしたが、鎮圧された。


ここに、権力をもった吉備氏は消滅した。


赤磐市 稚媛の里


古墳をみても、この時期から極端に力が落ちている。
目立たないように、吉備氏の末裔は細々と生きていった。


壬申の乱(672年)にも、吉備のことが少しばかり書かれている。

近江朝廷の大友皇子側は、東国と吉備 筑紫 に兵力動員を命じる使者を派遣したが、
東国の使者は大海人皇子側の部隊に阻まれ失敗、吉備と筑紫は動かなんだ。

吉備の国については、「当摩公広島」は、壬申の乱が勃発したときに吉備国の守であった。
吉備に軍を発するよう命じる使者を出した大友皇子は、広島がかつて大海人皇子(天武天皇)の下についていたことから、広島も反

乱に同調するのではないかと疑った。そこで大友皇子は「もし服従しない様子があったら、殺せ」と使者の樟磐手に命じた。
磐手は吉備国について符(命令書)を授ける日に、広島を欺いて刀を解かせた。それから自分の刀を抜いて広島を殺した。

この乱の後、『播磨国風土記』に、石川王が総領だったときに都可の村を広山の里と改名したと記す箇所がある。
また、『日本書紀』によれば679年の死亡時に石川王は吉備大宰であった。


石川王は吉備大宰(吉備総領)として少なくとも吉備国(後の備前国・備中国・備後国・美作国)と播磨国を治めたと推測できる。


吉備の国は、大陸と大和を結ぶとき、どうしても通過する場所、鉄の文化、製鉄の遺構がある。
砂鉄からの生産でなく、鉄鉱石から鉄を生産する工場も発掘されている。

奈良時代から、筑紫と畿内を結ぶ大路が通過し、常に異文化が通過する場所であった。政権も安定し、
下級官僚となって延命しとった吉備氏は、吉備真備が中央で活躍する。



矢掛町 吉備真備     古代山陽道の駅家の成立について



吉備氏より遅く、吉備に定着した磐梨別氏は、この時代、和気清麻呂が和気郷の領主から備前国造に昇格し、中央で活躍した。

同じ時代に、吉備真備も中央で活躍していた。
和気清麻呂の先代は、磐梨別氏であり、いまの熊山町(現在は赤磐市熊山地区)にあった邑久郡和気郷であった。

その後、天皇に仕えた功績で、邑久郡、赤坂郡、上道郡から分割されて、和気郡が創設、その後788年に、磐梨郡が分割された。
和気氏の名前を引き継いだ郡が2箇所(和気郡、磐梨郡)も出来たことになる。

和気町 和気清麻呂   赤磐市 和気清麻呂塚   東京都千代田区大手町 気象庁前 和気清麻呂公銅像    九州・宇佐神宮    


海の航路は、潮の流れは早いが、波の穏やかな瀬戸内ということもあり、早くから西国と京大阪を結ぶ「海の山陽道」として発達した。
江戸時代には、京から陸路を姫路まで辿り、播磨の室津から海路で、九州に向かう場合も多かった。

吉備の国には、日生・片上・牛窓・下津井・玉島などの良港も多くあった。


岡山日生港 片上湾    日本のエーゲ海 牛窓   倉敷市下津井         倉敷市玉島

「岡山の海ゆっくり散歩」 (瀬戸内海国立公園)


その後平安時代のおわりごろ


源平合戦では、平家の恩顧を受けた妹尾兼康が、登場した。妹尾兼康は、全国で活躍した。

平家物語では、「瀬尾最後」として、息子をかばいながら最後を遂げる悲しい物語として描かれいる。
源氏の世に、負けた平家の中で悪玉になっていった。

現代の歌舞伎では、悪役として公家をいじめる役になっているらしい。
怖い顔をして、見えを切る役だが、一面、負けるのがわかっていても、平家に尽くした人生は、一途なものを感じる。


その妹尾氏にいじめられた関白基房や、大納言藤原成親・藤原成経(丹波少将成経)親子の物語では泣かせる場面に、吉備の国が登場する。

平家物語関連

 岡山市 藤原成親遺跡                    和気町 「倉光三郎成澄之塚」   

 岡山市 関白藤原基房屋敷跡               倉敷市玉島 水島合戦古戦場   

 妹尾兼康公墓(岡山市吉備津 鯉山小学校)      総社市井神社、兼康神社 

 総社市緑山




鎌倉時代が終わると、太平記の物語の時代である。


全国各地に「太平記の里」が造られ、華々しい軍記が登場する。
この時代に登場するのは、吉備の代表としては、児島高徳である。この太平記を執筆したのが、児島高徳自身もしくはその一族との説がある。

倉敷市林に、修験道場があり、修験者が全国を駆け巡り、情報収集を行っていた。

鎌倉時代、天皇が幕府に反旗を翻した「承久の変」のとき、天皇の皇子が流罪された地であり、
その後その末裔が、修験道を運営した。

皇族の末裔であり、児島の地に生まれ、徳の高い武者、児島高徳として全国を飛び回った。
この人も、命を懸けて、滅びる側(南朝、脇屋氏)に加勢した。


新熊野山(後鳥羽上皇)     新熊野山(五流尊龍院)     太平記で活躍した児島高徳




その3に続く

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作成者 藤本典夫