吉備の国解説その1

吉備の国へようこそ
これから、吉備の国をご案内します。


司馬遼太郎氏著
「歴史を紀行する」

桃太郎の末裔たちの国より

 「吉備」という語感がたまらなく好きである。上古岡山県は吉備国といった。
のち備前、備中、備後(備後のみは明治後広島県に編入)それに美作をくわえて四カ国にわかれたが、吉備といわれていたむかしは、出雲が大和朝廷に対する隠然たる一敵国であったように、吉備国もまた一個の王朝のすがたをとっていたにちがいなかった。
鉄器が豊富であった。
 中国山脈で砂鉄を産したがために、武器、農具が多くつくられ、兵はつよく、土地ははやくからひらかれ、出雲とならんでいわゆる出雲民族の二大根拠地であり、その富強をもって大和に対抗していた。この点、岡山県は他県とはちがい、しにせが古すぎるほど古い。


小林惠子(やすこ)氏著
解読「謎の四世紀」文藝春秋刊 より

 「書紀」にスサノオがヤマタノオロチを韓鋤の刀で斬ったとあり、この刀は「今、吉備の神部の許にあり。出雲の簸の川上の山是なり」とある。
その「出雲簸の川上の山」にあたる吉備の神部とは、赤磐郡吉井町(現赤磐市)の石上布都之魂神社で、・・・・・・、後に成立した「出雲風土記」にスサノオのヤマタノオロチ伝説がのっていないのは、「出雲風土記」が成立した頃、すでに出雲の国の範囲が現在の出雲地方に近いものにせばまっていたからである。
 これらのことから、当時の出雲には吉備地方が含まれていたのは間違いない。


 キム タルス氏著
「日本古代史と朝鮮」講談社学術文庫702より

 私自身も、「日本の中の朝鮮文化」を書く必要上、岡山、吉備を訪ねたのであり、それまでは、吉備などというところは、知りませんでした。
訪ねてみて驚いたことは「吉備王朝」といわれるようなものが、たしかに、吉備にはあったということです。
たとえば、吉備は、一般の歴史書には大和朝廷の勢力によって征服されたというふうに書かれていますが、大和というところは、ほうぼうを歩いてみれば、いわば底が浅く、少なくとも大和がどういうところであるかが見えます。
 しかし、吉備へ行ってもその底はとても見えてこない。 それほど奥深いところなのです。


「日本古代史と朝鮮」のなかに引用
同志社大学 森浩一氏 

 「造山古墳と作山古墳、これはいつからこの名があるのか知らないが、巨大な土木建築の構築物を巧みに表現している。
 造山古墳は、日本で四番目の前方後円墳で大和のどの古墳よりも雄大であるが、四番目というのは、考古学上、古墳時代とよぶ約四百年を通じてのことなので、ある時代では、最大だったかもしれない。
 そして、最近古墳群を見下ろす鬼の城山頂で朝鮮式山城が発見された。
この山城のあるところは、古代では、賀陽郡であったが、古代朝鮮南部の加耶が共通しているのがおもしろい。」


鳥越憲三郎氏著
吉備の古代王国 新人物往来社 より      

 吉備国は、歴史の早い時期に、大和の王によって二度も征討を受け、吉備王国の夢は消えて行った。
しかもそれだけではない。五世紀末の雄略朝のとき、吉備の国造が謀反した。
その結果、吉備一族は、想像を絶するほどの手痛い傷をうけた。


黒岩重吾氏著

「古代史の真相」 PHP文庫 より

私が「古事記」、「日本書紀」に親しむようになったのは、
昭和42年の岩波書店の古典文学大系の初版ですから、もう20余年前になります。
その頃は、「記 紀」の批判が真っ盛りだったから、当然、批判する立場から入ったのです。
しかし、研究を進めていくうちに「記 紀」はうそばかりではないと思うようになりました。
その1例をあげると1971年韓国の忠清南道公州の宋山里で百済第25代の武寧(ぶねい)
王陵が発掘された。
王陵に墓誌銘があったことから、武寧王が523年に62歳で没したことがはっきりした。
逆算すると462年に生まれたことになる。
この墓誌銘と埋蔵品が東アジアの古代史に与えた影響は、計り知れないものがあるのだけれど、
それは今は置くとして、この武寧王という百済の王様は、日本で生まれたと「日本書紀」の「雄略紀」
に書いてあるのです。

中略

それ以来、私は、「日本書紀」を見直したのです。もとより批判的に読まなければいけないところも
あるけれど、それだけではない。「日本書紀」の中には、史実もしくは史実に近いことも含んでいる
のだと思いました。


■直接、吉備の国を紹介したものではありませんが、「日本書紀・雄略紀」については、
その信憑性は、重要な問題なため、あえて識者の意見として掲載しました。


真壁忠彦氏著
歴史読本 昭和五十四年五月号
「吉備王国の消長」より 

 吉備国も古代史の中、多くの消長をたどりながら、一時は河内王朝と対抗するばかりの勢力を持ち、その後、畿内政権の支配が強まる中でも、かつての吉備勢力の伝統を、長く律令国家成立時まで残している地域も、広い吉備地方には、存在しているのである。
 吉備地方には、六世紀の横穴式石室を持つ巨大石墳、こうもり塚、箭田大塚などすぐれた後期古墳が知られており、吉備真備を生み出すような背景も十分うかがうことができるのである。


吉備の国解説その2



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作成者 藤本典夫